インド旅行の前にやけに難しいことを考える その2-高校生の私の疑問に対する今の私からの答え
こんばんは
実家に帰ってきています。
どうやら、実家のお猫様(※図)が
今週一週間ほど家に置いてけぼりをくらうことを
動物の第六感で察しているらしく(筋金入りの飼い猫のくせに…)
必死に「行っちゃいや!アピール」をしているとのこと。<母談>
※母が観戦中のアジア大会を邪魔して構ってほしそうにしている図
夜中に小鳥を捕まえてきて、寝ている母の枕元に献上したり(!)
やけに人の顔じろじろ見てきたり…
かわええ。
でもごめん、君は連れていけんわ(^;×;^)
だって検診のためにほんのちょっと車乗るだけで大騒ぎじゃない、君。
さて、今日は少し日にちが空いてしまいましたが
前回↓の続きです。
「ねえ、この深い河って、どこを流れている河のことなんだろうね。」
前回の記事は中途半端なところで終わってしまっていてすいません。
冒頭に載せたこの一文は、私が高校生の時に楽譜を配られて
「DEEP RIVER」の文字を見てそのまま隣にいた誰かに言ったセリフです。
(前から言ってますけど、いわゆる“思い出補正”があちこちにかかってるのはあしからず;)
せっかくなのでyoutubeで探してるうちに見つけた
一番好きなバージョンのディープリバー載せときます。
視聴できる環境のある方はぜひBGMとして流しながらどーぞ。
曲を聴いても吹いても、
“ゆっくりとしたやけに壮大な曲”としか思えなかった高校1年生の頃。
遠藤周作の『深い河』を読んで、
“「ゆっくりしていて壮大」「キラキラしてる」だけではなくて
「悲しみ」がある、「怒り」がある、でも「希望」がある” 、
“なぜだか特別な何か” を感じた高校2年生の頃。
そしてインド旅行直前に『深い河』を読み返して、今。
私なりに深い河とは、どこに流れているのかを考えてみました。
ずばり、高校生の頃の私に今の私が答えてあげるとするならば
「自分と相手との間に流れている」といったところでしょうか。
深い河は、いわゆる「埋めることのできない深い深い溝」のことだと私は思います。
それは、決して宗教とか文化の違いによるものだけでなく
日本でこうして日常生活を過ごしている自分自身と周りの人との間にも
必ず存在する溝のことなんではないかと。
どんな人にも人生があり、語られない悲しみがあるということ。
一人の人生の、愛も悲しみも…すべて飲みこんでいるのが「その人の河」です。
そして、他人と何もかも全く同じものが流れている河はない。
自分の隣にいる人にだって、今日街ですれ違った見知らぬ人だって、
異国で出会った常識も何もかも理解できない人だって、
自分とは違う人生を過ごし、それぞれの河を営んできたということ。
あまりにも当たり前すぎるのかもしれませんが、
ふと我に返って考えてみると
普段相手と自分の間に流れている溝の深さを意識しないがために
生じてしまった難しさが今まで何度も何度もあったなあと。
具体的に言えば、自分の常識や自分の価値観が普遍なものだと勘違いしていたせいで
思わぬ場面で相手を傷つけてしまったり、相手を理解できなくて苦しんだり。
あまりここまで本の内容自体には触れていませんでしたが、
戦後40年ほど経過した日本から物語は始まる。それぞれの業を背負う現代の日本人5人が、それぞれの理由でインドへの旅行を決意し、ツアーに参加する。
ここに「業を背負う現代の日本人5人」とあります。印象に残ってる人物は、
磯辺
老年期に差し掛かった男。妻を癌で亡くしてしまう。妻は臨終の間際にうわ言で自分は必ず輪廻転生し、この世界のどこかに生まれ変わる、必ず自分を見つけてほしいと言い死んでしまう。人生に家庭の愛など大した重みは無いと思っていたのだが、妻の自分に対する静かだったのだが実は情熱的であった愛情を初めて知る。
美津子
女性の魅力で複数の男性の心を弄んだ。その中に神父を志す冴えない男子学生の大津がいた。悪友からけし掛けられ面白半分で彼を誘惑し性の虜にする。
木口
男性の老人。戦時中にビルマの作戦(インパール作戦)に参加したことがある。絶望的な長く苦しい退却戦を経験する。途中木口も瀕死の状況に陥るが、部隊に居た戦友の塚田に救われる。塚田は木口に食料を与えようと、他の味方が売ってくれた肉を手に入れる。結局木口が食べることができず代わりに食べるのだが、それは実は二人の知る他の戦友の死肉であった。
の3人です(下線は主となる業に繋がると思しき部分に私が引いたもの)。
彼らは自分なりの人生の意味を求めて、インドに赴きます。
本文中では章立てごとに「磯部の場合」「美津子の場合」のように一人ずつの過去については語られていくのですが、
自分の事情をツアー参加者たちが明かすシーンは多くありません。
彼らは求める答えをインドにて探そうとしますが、
お互いの言動を不可解だと感じることもあります。
本のレビューをここでしたいわけではないので、
これ以上触れるのはこの辺りでやめておきますが。
私が本を読み終えて感じたのは、
自分の河だけが世界唯一の河じゃない、ということです。
ちょっと全然うまく言い表せれないのがもどかしい。
すぐ隣にいる人の河、
自分とは別のものが流れている河。
それが隔たり。
深い深い隔たり。
ただし。
その深い深い他人との間にある深い隔たりは、
罪も祈りも生も死も愛も憎しみも、
すべて一緒くたにして飲み込んでくれているものでもあります。
突然「罪」だの「愛」だの「祈り」だの言いだしてしまっては、
どうしたんだ?と思われるかもしれませんが…
実は今回『深い河』を再読してみて、一番大きな気づきはここでした。
確かに河は自分の周りに、他人との間に無数に流れています。
しかし、彼らがツアーで訪れた深い河「ガンジス川」では
生も死もありとあらゆるものを全て猛烈に飲み込んでしまっています。
インド人のすべてを飲み込み流してくれる偉大な河、ガンジス。日本人にとっては日常生活から遠のいてしまった「死」が、ガンジスのほとりでは現在でも生々しくうつし出される。ガンジスは実は土着的なヒンドゥー教徒のみに重要なのではなく、どんな宗教に属しようが、あるいはどの宗教にも属しまいが、あらゆる人間のもつ複雑な人生のすべてを包み流してくれる存在である。 <引用>
物語の背景としての「ガンジス川」の在り方はまさに、
私たちが普段多くの人と関わって生きていく中で
知っているだけで救いになるのではないかなと思ったのです。
自分と他人との間には深い深い河が流れているものの、
それら全てを飲み込んだ大きな濁流は人々の「死」であり「希望」でもある。
なんか、簡単な言葉で説明しようとすればするほど
とってもチープになってきてしまいそうなので、
とりあえずここまで。
以上、
高校生の頃から心に秘めてた『深い河』への結論をつけてみました。
ま!今回ガンジス川は行かへんのやけど!!
けどとにかく、ことあるタイミングで日本人の常識との「深い河」があるんだろなー←要するに今日のブログはここだけ言いたかったけど、やっぱり文章にしたらとってもチープ(笑)
うーん!
本当は別の話題にも触れる予定だったのだけど、
思いのほか長くなってしまった;
今日書きたいと思ってたことについてはまた今度。
では。